『there's many a slip 'twixt the cup and the lip. 【寸善尺魔】』
komedokoro
シンジは、あてどもなく夜の道を歩き回っていた。自分がまだ覚悟のできていないアスカを性急に求めすぎたのが悪いのはよくわかっていた。
けれども、釈然としない自分の気持ちもまた、どうにも持て余していたのだ。
身体が火照り、どうしようもなくいらついており、そのもやもやをアスカの態度にぶつけていたのだった。
『シンジ!・・・シンジィ。』
アスカの絶望に満ちた、最後の言葉が耳に残っていたが同情する気になれなかった。
それなら、なぜ人を試すような事をするのか。誘惑するような真似をした方が悪い。
そうだ、アスカが悪いんだ、と同じ所でぐるぐると思考が逡巡していた。
−まるで聞き分けのないガキの様な理屈だと自己嫌悪に陥入りそうになる。
何故こんなにこだわるかといえば、やはりどんな理由を付けてでも自分がアスカを求めているからなのだ。簡単にいってしまえば性欲の為で、一番身近にいて、一番やらせてくれそうな女がアスカなのに、案に相違して生殺しのような目に合っている事に、理不尽にいらだっているのだ。一体何時から自分はこんなに下賤な物の考え方をするようになったのだろうかと、自分を情けなく思い唾棄したくなる程なのにアスカを恨んでいる。今の自分に比べたらあの病室での情けないざまを曝した時の方がよほどましだ。
少なくともあの時は純粋に自己嫌悪に浸れた。今は素直に浸る事すらできない。
いやもしかしたら自分という人間は病室に鍵をかけた時からずっと転がり堕ち続けているのかも知れない。
「これからどうしよう。」
思わずシンジは呟いていた。こんなに自分の性欲が強いのはやはり父親の血筋なのだろうか。アスカという掛替えのない、自分の半身のように愛おしく想っている少女に対してさえ性欲がからむとこんなにも酷薄でいられるというのは。母に固執して世界を破滅に導き、赤木リツコや、その母親や、レイとまで、淫猥な関係を持っていた、あの獣物のような男の血のせいなのか。
『シンジ!・・・シンジィ。』
あの哀し気な悲鳴を聞いて、自分が想ったのは、アスカが考えを変えて抱かれに来るかも知れないという、どうしようもなく穢れた期待だった。だから外に飛び出したのだ。あのままだっったら、きっとアスカの意思はどうあれきっと襲い掛かっていたに違い無かった。
そうやって、シンジは夜の街を徘徊していた。
突然、腕を掴まれた。見ると、くたびれた背広の白髪のまじった中年の男だった。
柔らかな笑いを口の端に浮かべて彼は言った。
「君、こんな時間に、高校生が盛り場をうろついてちゃいかんな。」
補導員?!こんな時に・・・。
「ち、違いますよ。僕は大学生で・・・。もう20を過ぎてますし。」
「おお、そりゃ失礼したね。まだ可愛い顔をしているものだから。」
男は特にこだわりもせずに頭を掻いた。補導員であったとしてもうむをいわせず連行すると言うタイプの人間では無いように見えた。
「20過ぎならいい。自分で自分をコントロールできる年だ。」
普段ならそのまま別れていただろう。だがその時のシンジは少し普通では無かった。
「年で決まる物なんですか!20過ぎれば自分をコントロールできるんでしょうか。」
男は怪訝な顔をして不思議そうにシンジを見た。シンジははっとして目を地面に落とした。誰とであれ、今、目線があわせられる気分では無かったのだ。
「ふん、そうだなあ。別にそういう訳じゃ無い。どうだ、俺と飯でも食わんか。飯と言ってもあそこの屋台だがな。君の質問にもゆっくり応えられるかもしれん。」
そこは、普通の屋台のようだったが、実際には本格的な中華料理の店だった。肉丼を頼むと、ひき肉では無く肉を細かく刻んだ物と半分は脂身を細かく刻んだものを同じ鍋でじっくり煮込んだ物を飯にかけて出されて来た。独特の香料と味付けが癖になりそうな感じがした。その他にも、男が幾つか頼んだ皿の物は何れも旨かった。
料理の材料については何も話を聞かない方がいいと思いシンジは黙々と飯を食い尽くした。それは、賢明な判断だったと言えるだろう。酒も飲まされて、シンジは幾分酔った。口が軽くなったのを意識していたがそれ程でもないようだった。
「20と言うのはあくまで何らかの事務的な場で決まった事で、理由なんか後付けなのさ。20になったら犯罪率が減るか?そんな事は無い。ほら、この豚足を煮た奴を食べて御覧。箸で千切れる程柔らかくて旨いだろう。」
「はぁ。確かに旨いですね。こんな料理もあるんだ。」
「君は知らなかったかも知れないが、これは紅焼猪脚<ホンシャオツオシャオ>という台湾や韓国の家庭料理としては大変ポピュラーなものなんだ。知っていれば君はもっと前からこの料理を味わえたかも知れん。」
男はそれを毟って食べると、ビールをあおった。
「知っていると言う事は多分に年に左右される部分が多い。知ってさえいれば切り抜けられる事も、しなくていい苦労もある。その境目が20位と日本ではされていたんだろうな。只、今の日本では成人を25くらいにした方が言い様な気もするし18とか16でも十分な気もする。それだけ多様化が進んで個人の経験する事が、多様化していると言う事なんだろうな。」
年相応のお説教だったが、今日は妙にそういうお説教を聞きたい気分だった。
「だが、他人が経験して、避けられるなら避けた方がいい山も、みんな失敗してるんだから、お前も経験しておけなんて言う山もある。君の山はどっちだろうな。」
「女の子の悩みなんです・・・。」
「さぞ可愛い子なんだろうな。君はその子をとても大切にしているが、反面そうでない自分もいるといった所か。」
「たぶん、予想されてる範囲内の悩みだと。でも今の僕には真剣な事なんです。」
「おいおい、先走るなよ。揶揄しようとしてる訳じゃ無い。だが、決まった処方って奴が無い訳でも無いんだ。」
「どういうことですか。」
「女の子だって、我々と同じ只の人間であると言う事をきちんと認識するべきだと言う事だよ。昔は『悪い先輩』なんていう人生の先達がいたから自然と認識できたんだよ。」
何故か楽しそうな笑いを浮かべて男は言った。
「女の子を人間として扱う事は大事だよ。しかしそれは女の子の方の世界の理屈であって男には男の論理もしきたりもある。それを知っておく、この場合は経験しておくと言う事は、そう生きるかどうかは別としてだ、大事な事でもあるんじゃ無いのか。」
一体何のことを言っているのか分からないまま、シンジは注がれた酒をもう一杯あおった。
「何か朝から険悪な雰囲気なのね。」
ミサトがお手上げだという風に肩を竦めた。シンジは黙りこくって食後の皿を洗っている。いつもなら、こんな風な沈黙が続けば一番おろおろするのがシンジだったのに。
アスカの様子もおかしい。シンジを怒鳴るでもなく、唇をかんでいるような顔をしている。強気でシンジの背中を睨んでいたかと思えば、次には目の縁を赤くしている。口の端のあれは、もしかしたらかすかな内出血の痣? シンジ君がアスカを殴っ・・・まさかね。
2人の間に何かがあったのには違い無いが、それを面と向かって聞く訳にも行かないし、多分2人とも何でも無いと言うだけだろう。
バンッ!
とうとう机を叩くようにアスカが立ち上がった。そのまま洗面台に向かう。シンジもアスカの行動につられるように、エプロンを丸めてキッチンデスクに叩き付けると自分の部屋に入っていった。アスカはいつもより派手にうがいをすると、挨拶一つせずドアを開けて出て行った。たたたたっと、廊下を走って行く音。
どんなに喧嘩をしていても先に行ってしまうということはなかったのに。ミサトは目線一つ動かさずに部屋を横切り、ドアを閉めて出ていくシンジの様子を観察した。
(「かなり重傷だなあ・・・。もうこれまでって事は無いと思いたいけどね。」)
「シンジの奴、とうとう昨日は朝帰り。ミサトが明け方戻って来たからいいようなもんだけど、お酒の匂いぷんぷんさせて、それに・・・それにあの匂い、変な香水の匂いだった。」
アスカは昨夜とうとう眠れ無いままで、4時半頃まで起きていた。その頃やっとシンジが戻って来たのだった。
バタン・・・ぎぎぎぎぎ。
その音にアスカは飛び上がって玄関に走り出た。暗いキッチンでシンジが水を飲んでいた。シンジと目線があった途端、アスカはぎくりとした。いつもの優しい眼差しとは違う、何か妙に獣臭い目つきだった。
「何だ、アスカか・・・。」
小さな声だったが、ずっと心配して寝つけないでいたアスカが、かちんと来るには十分な声だった。
「何だって事はないでしょ。一体こんな時間までなにしていたのよっ。」
「うるさいな・・・。」
「えっ。」
冷たいものがひやりと背中を抜けたように思えた。こいつ、いつからこんな・・。
「うるさいなって、言ったんだよ。」
「お、お酒・・・飲んでるの?」
「君に関係ないことだろ。」
「まだ・・・、怒ってるの?」
自分は全然関係の無い事をいっている、と思いながら、一番気になっていた事を、つい聞いてしまった。この話題になれば自分のほうが弱い立場にたつのが分かっていて、まるでシンジに媚びているみたいに、おずおずと。
「別に。アスカが拒むのはアスカの勝手だし、君が悪い訳じゃ無い。」
「も・・・もう、怒って無・・い?」
なんて情けない事を聞いてるんだ、私は。と心の中のいつものアスカが歯ぎしりしている。シンジがすっと寄り添って来て、腰を引き寄せた。上半身と腰から下が後ろが撓るように弓なりになる程強く。
「あっ。」
乱暴に唇を奪われた。そのままシンジの舌が口の中に押し入って、アスカの舌と絡み合った。あっという間に頭の中が白く爆ぜたようになった。訳が分からないまま夢中でシンジの首に手を巻き付けていた。自分が貪られるように扱われているのが甘美だった。パジャマの釦が外れて、そこからシンジの手が背中に回った。
シンジの手は今度は全く躊躇わずに背中から前に回り、ブラをしていない柔らかなアスカの胸を手のひらが円を描くように這った。溜らず漏らした吐息に勢いづいたようにシンジの唇が喉首を這う。舌が産毛に微かに触れるように、静かに巧みな感触で降りてくる。何時の間にか全ての釦が外されていてアスカの白いうなじから、喉元、胸元、密やかに震える丸い乳房、柔らかに息づく腹部までが曝け出された。
「だ、駄目・・・ぇ・・・シンジ・・・。」
途切れ途切れに小さな声が抗っても、もう全身の肌が上気していて、蒸れたような甘い香りが微かに付けたコロンと一緒に周囲に立ちこめている。シンジの唇が、アスカのまだ淡いバラ色の清らかな乳首を口に含んでいた。
白い肢体が暗闇の中で弓なりになり、その半弧の頂点がシンジに支えられている。
そのまま何の躊躇いも無く、意識が半ば飛んでいるようなアスカの下腹部にシンジの手が差し入れられた。
「は、・・・あっ、・・・イヤッ!」
そのまま、シンジは、屈んで逃げようとしたアスカをキッチンの床に勢い良く押し倒した。ゆったりしたパジャマのズボンは、ショーツごと一気に足先まで引き降ろされ、抗おうと足をアスカが縮めたため、かろうじて右足首に引っ掛かっているだけだった。
シンジの息は酒臭くていやな匂いがした。嗅いだ事の無いような、生臭い匂い。
シンジの震える声が呟いた。
「アスカ、君が欲しい。」
「いやっ、こんなところじゃいやっ!」
アスカは自分が何を言ったか分かっていなかった。破瓜への怖れからそう言うのか、こんな台所の床で抱かれるのが嫌なのか。シンジが嫌なのか。先ほどバスルームで行われた争いがまた繰り返される。だが、今度はシンジが強引だった。必死で膝を
合わせて這って逃げようとするアスカを押さえ付けると無理矢理足をこじ開けようとした。
乱暴に数回後頭部を床に打ち付けられて、アスカは苦痛に呻いた。それでも助けをあげるための大声を上げないのは、シンジを最後の所で信じていたいせいなのか。
シンジの肘が揉み合ううちにアスカの顎を跳ね上げ、アスカは今度こそ思い切り壁と床の界に後頭部をしたたかに打ち付けて、半分気を失い抵抗力を失った。
ぼんやりした視界の中で、アスカはシンジが自分の脚を広げたのを意識した。
抗いたかったがもう身体に力が入らなかった。シンジがカチャカチャと音を立ててベルトを外している。
「こんなところで・・・。もっと大切にされたかったのに・・・。」
涙が初めて溢れた。アスカは声を押さえて泣き始めた。それでもアスカらしい誇りが声だけは出すまいとしたが、それももはや無理だった。
「うっ、うううっ、う。うう〜〜。」
「泣くなよっ、うっとうしい。僕を好きじゃ無いのっ。愛して無いのっ。」
アスカの声が一層高くなった。
愛してるからじゃない。だからこんなの酷すぎるって思うんじゃないッ。
その時、玄関に人の足音が聞こえた。
シンジは我に帰ったように上半身を起こした。
急いで服を羽織ると、アスカの身体の上にパジャマを投げてよこした。
目線が、アスカを恨みがましそうに見ていた。
「アスカが素直にしないからっ。」
シンジはそのまま自分の部屋に音もたてずに走り込んでいった。
再び静まり返るキッチン。その床でアスカも投げかけられたパジャマを急いで身に付け、ショーツを握りしめた。そして漸くしてミサトが鍵を探し当て、玄関のドアが開いた瞬間に自分の部屋のドアを閉じた。
朝、早起きをして、大きな痣はファンデーションで何とか隠した。ヨーロッパ系の彫の深い顔は薄化粧くらいなら、自然に見えるのが救いだった。
良く見ると唇も少し切れていた。その跡かとおもったうちの一つは血では無くて、口紅だった。何故シンジの口に? 理由は一つしかない。カッと頭が熱くなった。
「今朝、あんな目にあった癖に何故こんなに酷く嫉妬するの?馬鹿じゃん。本当にどうしようもない、大バカじゃないのあたしって!」
負けん気がシンジをミサトの前で罵ろうと待ち構えていたのに。それなのにシンジの顔を見ると何も言えなかった。今の自分は自分が一番馬鹿にしていた愚かな奴隷のような女だった。逆に自分を口汚く罵ろうと待ち構えていた理性が一度に団体でやって来た。
「あたしが誘惑するような真似を繰り返したから。あたしが不用意な格好で酔ったシンジの前に現われたから。きっぱりと最初から拒絶できないで、ずるずると応じていたから。」
どちらにしても、アスカはシンジの今朝した事については我慢する事にした。自分がこんなに古風で弱々しい事をアスカはしみじみと実感し、情けなさに、溜息を何十回と無くついた。自分にできるのはせいぜいキッチンで皿を割ってみたりするだけだった。さすがにシンジはもう、許してくれと言わなかった。目線すらなかなか合わせ様とはしなかった。アスカは「恋人」のそんな態度を口を引き結んで耐えるしか無かった。どうしてこんな、不条理な目にあうのか。それが理解できないまま秋が過ぎて行った。
”there's many a slip 'twixt the cup and the lip. ・・・か。”
「何か言った、アスカ。」
「ううん。なんでもない。」
「最近元気ないんじゃ無い?あんまり笑うとこ見て無いような気がする。」
「気のせい、気のせい。今でも良く笑うよ。いろいろネルフの方が忙しいから、少し疲れているかもね。」
一つ嘘をつくと次々嘘が必要になる。私は今、嘘だらけだ、とアスカは呟いた。
2002-02-22there's many a slip 'twixt the cup and the lip. /komedokoro