珈 琲 艶 話
林原 兼実
夢の中で見るコーヒーは何時もどこか官能的だ。
馥郁とした香りと豊潤な苦味をたたえたその琥珀色の液体は蠱惑的ですらある。
だが実際に飲むコーヒーはいたずらに苦いだけで、大量にミルクを加えなければとても飲めたものではない。
セカンドインパクトの傷跡はかなり癒えてきているとはいえ、嗜好品の価格は未だに飛び抜けて高い。
コーヒーもまた庶民には中々手の出ない高級品となっていた。
結果、私のような学生や一般大衆はインスタントのものを飲むことになる。
母がコーヒー好きで小さい頃から豆から入れたコーヒーを飲んでいた私からすると、それは泥水と変わらないように思えるのだ。
それでも手持ちぶたさになるとコーヒーを求めてしまうのは、これはもう習慣というよりも一種の中毒なのかもしれない。
私たち二人は駅前のメインストリートから路地に入り込み、怪しげなネオンの看板を掲げるラブホテルの連なる裏通りを歩いていた。
私の名前は赤木リツコ。第2新東京大学の四年生だ。
世界的な科学者である母の威光があることは否めないが、それなりに名前を知られている身でもある。
連れの男性は加持リョウジ。
私と同じ大学に通っているのだが、つい二週間ほど前まで私の親友である葛城ミサトの恋人だった男だ。
そんな男とどうしてこんな通りを肩を寄せ合って歩いているのかを説明するには、西暦二千年に人類を襲った未曾有の大災害セカンドインパクトにまで遡る必要がある。
セカンドインパクトの時、私たちはそれぞれの場所でそれぞれの時間を過ごした。
その頃の三人に共通点は少ない。
ただ、一ついえることはいずれもセカンドインパクトに対して一方ならぬ思いを抱いているということだ。
私は安穏とシェルターでなに不自由なく過ごしたことに対する引け目があった。それもシェルターを用意した人類補完委員会はそのセカンドインパクトに関係しているかもしれないのだ。
親友のミサトは父親に連れられてそのセカンドインパクトが起こった現場である南極にいた。そして唯一の生き残りである彼女は、家族を奪ったセカンドインパクトを起こした何者かに対する復讐を誓った。
加持君は何とか生き残ったセカンドインパクト後の世界で、弟と数人の仲間と共に暮らしていたそうだ。食料を得るために軍の倉庫に忍び込んだ彼は生き残るために仲間を、そして弟を見殺しにしてしまったと言う。彼は贖罪のためにも真実を知ることを決めた。
ミサトと加持君。二人の仲は私から見ても良好なものに映っていた。
だが私の知らないうちに二人は別れを迎えていた。
未だお互いに未練を残しているようにも思える。それでも二人が別れたのは互いに信じる道を進むことを決めたからだ。
復讐、そして真実を知ること。それぞれの目的のために、二人は袂を別ちたのだ。
また、お互いに自分が幸せになることに懐疑的だったことも知っている。
自らが犯した罪。あるいはそれこそがキリスト教で言う原罪なのかもしれない。
加持君が真実を知るための重要な手段の一つは女性であるようだ。
セカンドインパクト以降の慢性的に人材不足の世の中では能力さえあれば性別になどこだわっている余裕はない。
したがって重要な位置につけている女性の数もそれ以前に比べると圧倒的に多い。
また、男性にしてもその多くは奥さんがいるし、あるいは年頃の娘がいるかもしれない。
ふと気を許した時に家族に秘密の一つも喋ることもあるだろう。
以前、内務省のかなりの地位にいる女性官僚とホテルに入るところを見たときはさすがに驚いたが、内務省の調査部にでも就職を世話してもらったのかもしれない。
そして母と共にジオフロントに避難し、建設中のゲヒルン本部を目撃している私もまたそれなりに情報を持っている。
別に彼の体が目的な訳ではない。
ミサトに彼に協力してやってくれと頼まれたのだ。自分はもう別れたのだから気兼ねは必要ないと。
二人はまだ相手のことを思っているのだろう。だからそれぞれの目的のために協力してやりたいのだ。
それはすでに恋人同士ではなく戦友のような関係なのかもしれない。
私の知っていることはすべて話した。
とは言えそれほど多くのことを知っているわけではない。
何よりもこのセカンドインパクトの真実と、その裏にあるものは私も知りたいと思っていることなのだから。
だが、それでもジオフロントの存在や地下にかなりの規模の施設が建設されていると言うことが確認できただけでもかなりの収穫のようだった。
話が終われば後はギブ・アンド・テイクだ。
こうして私たちは夜の街を連れ立って歩いている。
「ここにしよう。設備はともかく清潔なことは確かだ」
私は彼の言葉に頷くと、派手で安っぽいお城のような外観のホテルを横目に見ながら比較的地味な宿の薄暗い入り口をくぐった。
ちょっと贅沢なディナー。
オードブルは新鮮なエビとアボガドにトマトのタルタル。
コンソメスープには一点の曇りもなく、シェフの腕の良さと丁寧な仕事がなされていることを証明していた。
メインの肉料理は鴨肉のオレンジソース、魚料理はスズキのポワレにキノコがたっぷり入ったクリームソース。
サラダのドレッシングには醤油が少し入っていたが和風になりすぎることなくきちんとフレンチの味付けになっていた。
最後にデザートとそして極上のコーヒー。
上品な苦味と共にベルベットのような香りが鼻腔をくすぐる。
心地よい満足感のなか、コーヒーを楽しむ私に加持君が「どうするのか?」と眼で尋ねてくる。
情報の報酬としてはこのディナーは上等だろう。もちろん支払いは彼がもつ。
ここで別れてもいいはずだ。だけど私は……
結局、私はこうして加持君と一緒に深夜のホテルに居る。
「なんだったら加持のやつ、食べちゃってもいいわよ。もう二年は、ご無沙汰でしょ?
それにさ、いつも加地君のこと見てたじゃない。あれは恋する女の子の目だったわよ」
この話を持ってきた時にミサトが見せたの、彼女が人をからかう時特有のニヤニヤとした顔を思い浮かべて苦笑する。
そんなことがある筈無いではないか。
なぜなら私は恋をすることを失った女なのだから。
セカンドインパクトとその後の混乱の時期を地下の大空間でなに不自由なく過ごした私が唯一失ったのは一人の男性だった。
高梨ヨシアキ。
その男性はファーストキスの相手だった。純潔を捧げた相手だった。
少女の頃の淡い初恋ではなく、初めて女として恋愛をした相手だった。
そんな人が苦しみ、死を迎えているであろう時に、私は安全な地下で安穏と過ごしていたのだ。
確かに最初は彼のことを思って嘆き悲しんだ。悩み、苦しんだ。
だがそんな感情にもすぐに慣れてしまい、ふさぎこむ振りをしながらその日の夕飯のおかずのことを考えられるようになっていった。
何時の間にか私の心は平静を取り戻し、それと引き換えに私は心のなかの恋をする部分を失ったのだ。
この時代、ラブホテルは再び男性が街娼を連れ込むための物となっていた。
セックスに非日常性を求めるのは男性のほうだという研究結果が出ているが、ラブホテルもまた奇妙な内外装といろいろ特殊な設備を持ったものが再び主流になっていた。
白亜の外壁に何の機能も持っていない飾りだけの尖塔。けばけばしい内装。
鏡張りの壁に回転ベッド。セックスのシーンを撮影するAV機器とそれをリアルタイムで映写する大画面のプロジェクター。
だが、どれだけの女性がそんなものを望むのだろうか。
女が何より欲しいのは好きな男性との幸せなセックスなのだ。
そこまで考えて自嘲的に笑う。
(恋を忘れた女の言うことじゃないわね)
だからこそ憧れるのだろうか? シャワーを使いながら不意に私はそんなことを思った。
彼がシャワーを使っているあいだに私は手持ちぶたさに部屋を見回す。
何の変哲も無いダブルベッドの置かれている小さな部屋。
特別な装置は何もない。
ベッドの足元に置かれたところどころ化粧版の剥げたローボードには14インチの小さなモニター。
何気なくスウィッチをひねるとわざとらしい嬌声と共に一組の男女が絡み合っている映像が映し出される。
ちょうど女性の顔の部分の画面が少し歪んでいるのがひどく滑稽で、これでは噴き出してしまって逆効果だとそんなことを思いながら画面を消した。
その横には銀色のコーヒーポットが置いてあった。
そしてボール紙に「夜明けのコーヒーを二人で」とマジックインキで手書きで書かれたカードと、伏せられたコーヒーカップが添えられている。
他には、壁に丸や三角がカラフルな色で描かれている額が掛かっているだけ。
本当に何も無い部屋。
性の営みのためだけに利用される部屋。セックスをするためだけの部屋。
置かれているものも雰囲気を盛り上げるためのもので、余計なものは何も無い。
一通り部屋を見て回って再びすることのなくなった私は、バスローブを脱ぐとショーツ一枚の姿で薄いピンク色のシーツにもぐりこんで彼を待つことにした。
薄暗い間接照明の灯りに、彼の均整の取れた筋肉質の体がなまめかしく映った。
乳房に伸ばされる手。
すべらかに、まるでその形を確かめるように愛撫を加える。
「ふ、んっ……」
彼の愛撫には、今まで経験してきた男達に感じていたようなためらいの様なもはまったくなかった。
やがて、私の硬く尖っている乳首を愛撫していた手は下に下りて行く。
私の乳房の先にあるその突起は、すでに赤く色づいて固くなっていた。
特別大きくはないが形がいいことだけは自慢なのだが、その先端にある乳首が少し大きくてバランスを崩していることだけが不満だった。
下のほうに伸びる手のほうに気をとられていると、その乳首を彼は左の乳房に顔を近づけると優しくキスをした。
「あん、ちょっと、ん」
にむず痒いような快感が歓喜と共に脳髄に響きわたる。
左の手はそのまま右の乳房をまさぐっていた。
そして彼の右手が、すでに潤み始めている私の秘部にそっと触れた。
優しい愛撫。絹のような、ベルベットのような肌触りの優しい愛撫。
「っ!!」
急に激しくなる彼の動き。
おとなしいとも言えるそれまでの愛撫に慣れていた、そして物足りなさもどこかに感じ始めていた私の体はたちまちその激しい愛撫に翻弄される。
「あっーー、あ、んん、んー、ふ、ん、あ、あぁぁーっ!」
止まらない声。
恥ずかしい。
もはや私の体は彼の手の動きのままに反応し、声を上げるしかなかった。
でも、……だけど私の心はそんな自分を冷静に観察している。
「ひっ、あー、ん、いい、それ、あ、あぁぁぁあぁーっ」
高ぶる体。
その先にあるもの。
「あぁん、あ、あーーぁああああぁぁぁーーーーっ!」
絶頂。オルガスムス。
だけど、それは肉体だけの反応。
心はそんな体を冷ややかに観察している。
だって私は恋を失った女なのだから。
荒い息が少しずつ収まると、彼は私のほうを優しい笑みを浮かべてみていた。
取って置きの優しい笑顔。だけど、ちょっと得意げな雰囲気。
「どうだい、俺のテクニックは?」そう言いたげな雰囲気は、まるでガキ大将のようで少し可笑しかった。
軽い、だけど無邪気なその雰囲気。
ミサトはこんなところが気になったのかもしれないと思いながら、私は彼に対する評価をほんの少し上に修正した。
そう言えば、一連の愛撫のなかで彼は決して唇にだけは触れようとしなかった。
――セックスは体を求める行為、キスは心をゆだねる行為――
そんな誰かの言葉を思い出す。
許されぬ恋を含めて数多くの女性と関係をもっている彼らしい気の使いようだと思いながらさらに彼の評価を上方に書き換える。
(だけど私は恋をする心を失った女。ゆだねる心はすでにないのだから……)
そっと両の手で彼の顔を挟んで上を向かせると、私は口付けた。
初めて私から彼にした愛撫は、そのキスだった。
ついばむようなキス。
それはやがて互いの口と口、舌と舌を絡み合わせるオラールセックスとでも言うべき淫靡なものとなっていった。
くちゅ。
そんな湿った音を立てて二人の口が離れる。
「つー」と唾液が糸となって二人をつなぎ、やがて離れた。
少し驚いた表情の加地君の顔。
私はそんな彼にくすりと笑いながら、その彼の頭を抱えるようにしてその耳元で「来て」と囁いた。
彼の表情はまったく見えないのに、私はなぜか彼が何時もの飄々とした笑顔を浮かべたように思えた。
彼の熱く固いものが、すでに十分に潤んでいる私の淫らな唇に分け入ってくる。
「あ、あぁぁぁぁぁ……」
あたかもパズルのピースのようにぴたりと合わさる男と女、二つの性器。
その奇妙な充足感に長く糸を引くような声をあげる。
避妊具の薄いゴムを隔てて感じる彼の男性器の熱さが再び私のどこかにある淫らなスウィッチを押した。
「ふんん……あ、はあっ!あ、あーーー」
口から漏れる嬌声は一段と高くなり、肉体(からだ)は再び精神(こころ)のコントロールから放れる。
淫らに乱れる肉体。
人は一人では生きてゆけない生き物だから。
だから人はそばにいてくれる他人を欲する。
だから肌と肌を合わせようと欲する。
魂(こころ)は合わせることができないから。
だから、その代わりに身体(からだ)を合わせようとするのだ。
淫らに交合するのだ。
アダムの肋骨からイヴが作られたそのときから、人は失ってしまった半身を求めるのだ。
男と女。
せめてひと時だけでもこの寂しさを埋めるために。
「ふんん、あ、んんん……んひっ!、ひ、あ、あーーー、んあ、ぎ……」
高ぶる淫らな肉体。
胎内に感じる彼のほとばしる熱いしずく。白く、熱く、そして淫らな男性の絶頂の証。
その熱いものは私の身体の奥深くに隠された最後のスウィッチを押す。
「ひゃ、あ、ああああ……がっ、ぐ、ぎが、あ、は、ああぁぁぁぁぁあああぁぁぁーーーーっ!!」
二度目の絶頂。より高く、大きく、そして深いエクスタシー。
私のからだはその活動を放棄し、アダムの肋骨に帰ろうとするかのように彼の胸の中で小さく丸くなった。
心地よい疲労感に身を任せていると、彼は私から離れて後始末をはじめた。
丹念な前戯、しかし彼のほうからは決して愛撫を求めることはしなかった。
暴力的なもののまったくない、洗練された女性にやさしいセックス。
(さすがセミプロね。それとももうプロと呼ぶべきなのかしら)
それは情報をくれた女性にその対価として支払われるサービスとしてのセックス。
そしてそれはまた、相手の女性を本当に我が物にしたいという独占欲の欠けたものでもあった。
私はそのことに少なからず寂しさを感じている自分がいることに驚いていた。
いつのまにかサキソフォンの甘ったるい音色がBGMに流れていた。
乖離していたからだとこころが再び元に戻る時間。
気だるさと、甘い雰囲気が心の防備にほころびを作り出すことは分かっていた。
分かっていた筈なのに……
最後に男性とこうして肌を合わせていたのはもう二年も前のことだ。
ちょっと線の細い芸術家肌の人だった。
いつも同じぼろぼろのジーンズとTシャツを着ていて、そしてトレードマークの臙脂色のハンチングをかぶっていた。
切っ掛けは公園で写生をしていた彼のイーゼルに私が躓いたのがそうだった。
だが切っ掛けなんてものは何でもよかったのだ。
相手すら誰でもよかったのかもしれない。
ただ、誰かにそばに居てほしかったのだ。
私は恋を忘れた女。
だけども人恋しい時だってあるのだ。
ただ肌を合わせていたい時もあるのだ。
そんな女が男とうまくいくはずもなく、数度の逢瀬だけで彼とは疎遠になった。
それから二年。
私は寂しかったのだ。
人は一人では生きてゆけない生き物だから。
だから私は加持君とこうして今、ここに居る。
情事のあとの気だるいベッド。
汗ばんだ素肌にシーツの感触と触れ合う彼の体温が心地よい。
その彼は先ほどから動く気配はなかった。
(眠ってしまったのかしら?)
だが直ぐにそんな筈はないと思い直す。
深い理由があったわけではなくて、ただ彼は安易に女性に寝顔を見せないような気がしたのだ。
そうっと彼のほうを伺ってみると、そこには私の知らない加持君がいた。
何時ものおちゃらけた軽い雰囲気の彼でも、セカンドインパクトの真相を追うときの鋭いまなざしでもなかった。
じっと天井の一転を見つめるその顔にはどこか陰のある心の迷いが滲み出ているかのような表情が刻まれていた。
いいえ、私は彼のこんな姿を一度見たことがる。
加持君が本心をさらけ出した瞬間を。
あれは街で女性を連れている加持君と偶然出会った時のことだ。
ミサトのことを仄めかしてその彼女を追い返してやったのだけど、なぜかそのまま彼と飲みに行くことになったのだ。
二人でグラスを傾けながら、言葉巧みな彼にリードされて、私はいろいろなことを喋らされていた。
そんな二人の立場が入れ替わったのはミサトのことが話題に上ってからだった。
とたんに饒舌になった彼の顔は本当にうれしそうだった。
急にピッチの上がる彼のグラス。
不意に訪れた沈黙。漏れ出た言葉。
「俺は、幸せになってもいいのだろうか?」
それは悲しい現実。つらい過去。
幾人もの仲間と弟の屍の上に生きている自分。
それは幸せになることへの懐疑心。
ミサトのことを心から愛しているのに。
いや、愛しているからこその不安。おののく心。
その時、彼は深い苦悩を抱え不安に押しつぶされそうな表情をしていた。
そして今、彼はあの時と同じ表情を見せている。
どうしてそんな表情(かお)をしているの?
私の所為?
いいえ、彼にとって私はそれほどにまで大きな存在ではない。
真実にひとつ近付いたからだろうか?
いや、それは彼が望んでいることであるはずだ。
不意にミサトのことを思い浮かべる。
彼にこうして何時ものポーズを忘れて本心を仄めかさせられるのはミサトだけだ。
それはいつか彼女が涙混じりに話した、加持に告げられたという言葉。
「お互いにセカンドインパクトにはいろいろな思い入れがある。恐怖、憎悪、復讐心。
ミサト、お前の思いは俺が引き受ける。
だからお前は幸せになれ。俺の分まで幸せになってくれ」
もちろん、なくしてしまった弟や仲間たちへの償いと鎮魂のためでもあるだろう。
自らの好奇心を満たすためもあるだろう。
だが、彼がセカンドインパクトの真実を追い求める最大の理由はミサトのためなのだろう。
あるいは他の理由はすでに自らへの照れ隠しとなっているのかもしれない。
意外とそういう形でしかミサトに対する愛を表現できないのではないのだろうか?
だがそのミサトは中学教師という平凡な幸せの道を捨てて、ゲヒルンの第三支部に就職を決めた。
うまくいけば次に日本に戻ってくるときは軍人となっているだろう。
それはセカンドインパクトの時に南極で目撃した、彼女から父親を奪った光の巨人に復讐するため。
だがそれは加持君が望んだものではない筈だ。
だとすればすでに目的は失っているはずだ。
それなのに、未だに真実を追う事を捨てきれずにいる。
すべてを捨ててミサトのそばにいてやれば良いのに。
あるいはそれこそが、いつか彼が言っていたつまらない男の意地なのかも知れない。
彼は意外と不器用なのだ。
私は普段の軽い態度に引きずられて私は彼のことを見誤っていたのかもしれないと、そんなことを思った。
本当は傷つきやすくて繊細で、そして不器用な人なのだろう。まるで……
その時、私の心にかつて愛した不器用でそれでいて何より大きな優しさを持っていた人のシルエットが浮かんだ。
その面影に重なる加地君の姿。まったく違うのに、どこか似ているそのしぐさ、表情。
「トクン」
不意に私の心臓が大きく主張を始めた。
(これは、まさか……)
それは過去にも経験したことのある感覚。
だが私の理性は、心の冷めた部分はそれを否定した。
私は恋をすることを忘れた女だ。これが恋である筈が無いではないか。
それなのに……
私は情事の後のこの甘い雰囲気に流されてしまっているのだ。
早く何とかしなくてはいけない。
何かに急き立てられるように立ち上がると、ローボードにおいてある銀色のポットのほうに向かった。
驚いた表情をしている彼の視線をお尻のあたりに感じる。
しかしそんなものにかまう余裕も無く、一糸まとわぬ姿でコーヒーを備え付けられているカップに注いだ。
(この甘い雰囲気から醒めなければいけない。そう、コーヒーだ)
そのまま私は苦さに顔をしかめながら、少し煮詰まってしまっている濃いコーヒーをブラックのまま一息に飲み干した。
ひどい苦味がのどに絡みつく。
だが、今はそれが心地良いものに感じられた。
早く夢から覚めなければいけない。私は恋をすることを忘れてしまった女なのだから。
私は恋をしてはいけない女なのだから。
END